感情に支配されない

じぶんぢから再生プロジェクト ゲンキポリタン
株式会社マートワン

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【34】感情に支配されない
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 モチベーションを高めて取り組むために、モチベーションの仕組みについて説明してきました。


 さて、ずっと読んでいただいても、実行できないと意味がありません。
私たちに必要なのは、知ることではなく、実行です。
だから実行できているなら知らなくてもいいといって過言ではありません。

 自分がイヤになるときってどんなときですか?
自分が思っていることを話せなかったり、実行できなかったりしたときではないでしょうか?


 つまり、ありのままの自分に、自分が気づいていながら、表に出してやらなかったときではありませんか?
過去に起こったことについて思い悩んでいる時です。



 その思い悩んでいる時間が、なにも行動していない時間です。
自分を嫌っている時間が、貴重な時間が垂れ流しになっている時です。
人生で何もしていない時間が多ければ多いほど、思うことができないのは当たり前です。
どんなに飛び抜けた才能があっても思うことはできません。
感情と時間とセットで消えていきます。
感情的になればなるほど、自己実現は遠のいていきます。

 行動力をアップする最適に方法は
毎日同じ時間に同じことをして、感情の支配を断ち切るのです。
毎日同じ時間に同じことをして、その濃度を濃くする。
どんどん感情の洪水から遠のくようにします。
それを妨害するのは2つ。


●自分の感情に支配されない
●自分に与えられた時間を支配する




 これまでご説明してきたように、感情と感情的行動は全く違うものです。
感情の表現は人生を瑞々しいものにしてくれます。
私たちがドラマや映画、スポーツを観て感動するのは、そこに感情とのふれあいがあるからです。
しかし感情はそのまま行動に移すと災害に転じます。


 たとえば「自分にごほうびをあげる」この言葉の意味には深い理解が必要です。
この言葉の意味は、自分のじぶんに対するマネジメント&コントールに耐えてきたじぶんへのごほうびです。つまり自律してきた自分へのねぎらいです。


しかし、こんな意味にも使えそうです。
「日々、イヤなことを我慢してやっているんだから、その位したってバチはあたらない」
 これは先の解釈と似ていますが、はたして同じでしょうか?
憂さをはらしているだけではないでしょうか。
つまりほうびは感情のはけ口でしかないのです。
「腹がたったから酒を飲んだ」のと同じです。
これが感情的な行動です。


労働は大変なこと、イヤなことを前提とした西洋社会の一般的な価値観の社会にあっては、反対の行為をもって「褒美」にしてしまうことが多いのです。
私たちは消費社会が仕組んだ仕掛けに気づかない内に、自尊心を高めようとしていた自分を裏切り、感情的な選択と感情的な行動によって、無意味に自分を罰しているのです。
 

もし、ご褒美をあげるなら、本当に自分が求めていることを選択するのが最適です。
それは容易に手が届かない場合もあり、そのために努力のプロセスが必要であったとしても、自尊心を高めるはずの褒美にふさわしく、あきらめてはいけないのです。


 私は花や庭園にも興味がありません。
それでも昔の日本人が、花見や月見などの風習を残しているのは、感情を楽しむ知性があったのではないかと思います。
昔の日本人は、ひとときの「間」をおく楽しみ、あるいは処理の仕方を尊んできたのではないかと思うのです。
桜の下でバーベキュ−するのも楽しいとは思いますが、瑞々しい感情を楽しむというよりは、感情的な行動のように思えてなりません。


 感情的な行動は、感情的な選択によって起こっています。
ですから、衣食住、買い物、仕事や勉強のシーンでとっている自分の行動の動機に、どんなものがあるか、一度、思い起こせる範囲で書き出してみましょう。
感情的な行動を慎むには、選択の段階で選択を変える必要があるからです。

「感情」は、愛情と恐怖です。それを分類して喜怒哀楽というように4つあります。
感情的な行動は、これらの感情を動機にした行動です。

くやしい、はらがたつ、悲しい、・・・そう思うのも思わないのも自分自身の選択です。
テレビではニュースで「桜が咲いた、咲いた」と放送します。
そのニュースをどう受けとめるかは自分の選択です。
行かないと損する気分になるのも、時間がもったいないと思うのも自分の選択なのです。

感情的な行動をとりたくなったら、じぶんに聴きます。
「どうしても感情的な行動をとりたいけれどいいかな?」
どんな答えが返ってくるでしょうか?
「とりたいならとりなさい。でも私は好きじゃないな」って自然に返せるようになったら大進歩です。
心がけで、自然にそう言える日がくるようにあせらずにチャレンジを重ねます。


 感情の洪水に流されて感情的な行動は起きます。

あなたがひとりで学習していたとします。
なんとなくさびしくなります。
「つらいな」って気になるかも知れません。
ところが現実は、それがなにか自分に影響するかといったら、何もありません。
感情の洪水は実は妄想なのです。。

だから寂しいなって思ったら、「ああ自分は寂しがっている。人恋しいなんだな」って自分の気持ちを認めてあげて、今度の休日に誰か誘ってみようと判断して、目の前の学習に専念したらいいのです。
もし、そのときに電話したり、遊びに行くと、学習する時間はなくなります。
「感情と共に時間は去りぬ」です。


誰かを誘うのは、学習しているときではなく、スキ間時間を利用します。
それを忘れるならその程度の気持ちだったということです。
忘れてしまう程度の気持ちで誘うのも相手に対して失礼なことです。
自分が感情的になったときに誘わずに、感情的でないときに誘いましょう。
それがお互いの境界を尊重したおとなのおつきあいです。



 こういうことも自分を大切にする訓練になります。
特に恋愛、さらにそこから発展する結婚、その後の人生に大きく影響します。
いいパートナーに恵まれるのと、そうでないのでは人生は全く違ったものになります。
いいパートナーとは、どんな人でしょうか?
ひとことでいうなら「生涯、あなたを励まし続けてくれる人です」
男女どちらもそうです。
励ませる人については、「価値観」「モチベーションを引き出す人」で励ませる人について触れましたので、参考にしてください。
励まし続けてくれる人とは、自分を肯定的にとらえている人で、同時に周りの人も肯定的にとらえることができる人です。


その背景には、「がんばればできる」という価値観が働いています。
つまり結果も大事ですがプロセスに光を当てられる人です。
赤ん坊が泣いても、ああうるさいなと思うと同時に一生懸命、生きようとしているんだなと考えて、成長に手を貸し、応援してあげられる人です。
自律心を使おうとするひとです。
「うるさい!」と投げやりになったりしない人です。
そう思ったときに、お互い様だと思うようにするひとです。
なかなか思えないけど、思うように変えることのできるひとです。
「愛している」「好き」というのは簡単ですが、その意味がなんなのか。
励ますこと、勇気づけることのできない愛情は、はっきり言ってニセモノです。



 自己肯定感の乏しい人の特長は、相手のことに気が回らないことです。
そのスタートがあいさつなのですが、それができないのはあいさつの仕方を知らないのではなく、あいさつする気持ちが違うからです。
あいさつする意味に関心がない、あるいは意味を間違えているからです。
自分がどう見られるかに関心があって、相手への配慮があるわけではないのです。


恋愛は自己肯定感の乏しさを、愛されている実感で埋めるので気持ちがいいものです。
埋めたい気持ちが強いほど感情的、強迫的にになります。
感情の動く仕組みを知らない人には「熱愛」に見えます。
で、結婚する。自己肯定感が乏しいので責任を嫌います。
こどもは責任のシンボルのような存在です。
責任を果たすことによろこびを見出せる人はこどもの成長に力を貸します。
泣くことしかできないときから、なれない自律心を使ってでも、励まし、応援します。
こどもと一緒に自分が育ちます。



 一方、自己肯定感が乏しい人は、自分にはできないと自縛しているので、不自由です。
励まし、応援することが苦手です。
責任から解放されたいとパートナーやこどもから逃避します。

 幸福な人生は、いまこの瞬間に没頭する力によって左右されますが、それには不安に惑わされない力、つまり自分を信じることができるのは近道です。
目標達成のためにコツコツ努力するのは、時に寒い旅路を往くことのように思うこともあります。
だから励ましの温かさが身にしみてわかるようになります。それが自分の宝になります。


 こどもが大人と違うのは、自分の行動の結果が十分に予測できない点にあります。
目標を達成できない大人にも同じことが言えますが、矛盾に満ちています。
目標に意欲的でないひとの行動を第三者が客観的に観察すると、自分の行動の結果について関心が低いように思えますが、実は結果に関心が高いから、いまするべきことが意識できなくなっています。


 だから取り組みが感じられませんが、結果は意識しています。
目標の関心のあるひとは、結果を忘れて、いますることに熱中しますので、結果はどうなるか分からんと開き直りに見えそうなときがあります。
これはネガと現像した写真の関係に似ていますが、この問題はいくら語っても語り足らないくらいに大きな問題です。
 このためみんなが結果に対して関心を持って取り組んでいるように錯覚しています。
この錯覚のために、自分は十分に取り組んでいない現実を分かりにくくしています。
ただ、具体的にやったことを説明してみろと言われると、考えただけで実行がないので説明できません。


 
そのためにできない原因を他者、環境、状況にせいにします。
そうしないと、説明がつかないからです。無意識のレベルでは知っていますが、意識して自分の不足を誰かになすりつけようとしているわけではありません。
ですからますます自分に囚われます。

■ 自己本位で依存的、自分が周囲に与えている影響が判らない人の場合

自分本位なのに、依存している人・・・とは、随分矛盾しているように感じませんか?
確かに矛盾しています。
だから自分が周囲に与えている影響も分かりません。
彼らのいい分から明白で具体的な特長が観察できます。

➢ 結果が悪いのは環境や状況のせいだ。
➢ 上司が悪いからやる気が起こらない
➢ 労働条件が悪いからやる気が起こらない、
➢ あんな人とは話したくない
➢ やったって、どうせうまくいかない
➢ やり方が判らないのにできるわけがない。

自分の行動、感情、人生は他人や周囲に影響されているという考え方です。
しかも、自分では依存していることに気がついていないので、自立した成人なら恥ずかしくて言えないようなことを平気でいいます。
そのため、自分が自己本位であること。

また自分が周囲にどんな悪影響を与えているかも判らないままです。
「自己認識スキル」が決定的に欠けています。
自分は悪くないと固執しているので、評論家的な態度をとることで自分の責任をはぐらかします。
自分に責任があることでも、自分を被害者の立場に置き換えて説明します。
道理が分かる人なら奇異に感じ、筋の通らない論理に苛立つことも少なくありません。
自分を第三者に置き換えて自分を消すマジックを使っているからです。
ですから、筋違いを指摘しても持論を変えようとはしないのも特徴的です。
彼らの仕事の仕方には、際立った特長があります。



➢ 結果の保証がないことはしたがらない。
➢ 自分が経験していないことはしたがらない。
➢ 自分が考えたことのないことはしたがらない。
➢ コントロールできそうに思えないことはしない。
➢ 準備された状態でないとしない。


この発想の根拠が、本人の実際の能力とは無関係ですが、自分でコントロールできないことを極端に嫌う傾向があります。
やったことがないこと、手に負えないと感じたこと、どこから着手していいのか判らないこと、自信がないことを嫌います。
過去の経験から自分が確信できること。自分が知っていること、出来ること、保証のある安心できる場合には関心を示すものの、不安を感じることには無関心を決め込み関わろうとしません。


そのためなにかにつけて消極的で、好奇心を示しません。
間違ったプライドが高いので、自分の得意と思う分野では実用的であるかどうかは度外視して誇示します。
つまり仕事に自分を合わす傾向が乏しく、自分に仕事を合わせることに専念します。
彼らは逃避の文法であるYes,But,If(はい、ごもっとも・・・しかし・・・もし・・・)を使う名人となり、事の重要性は分かっていても、正しい優先順位を決めることができません。


 しかし、これは非現実的な硬直化した態度です。
 実際の世の中は制約だらけです。
なにか不足があったり、思うようにならない制約があるのが現実です。
それと向き合いながら、自分の創意工夫で目標を達成して行くのが一般的です。
ですから難易度の高いことに散り組むほど、自己認識が高まりエネルギーが生じます。
つまり自律心によって、自分が事態をコントロールしているという実感が高まり、自己肯定感が強まります。

 一般にはやり方が判らないことに臨んで行くのが普通です。
ところが常に保証を求める彼らにはありえないことと映ります。
彼らにとって臨む課題は、ゴールインが間違いないことです。
準備された状態とは、制約のない状態に近いことを意味しています。
恒常的に、自分を観察しない分、他者の欠点に注目しています、
おかげで、他者の欠点、落ち度、悪口、不平、不満のオンパレードとなります。
彼らに言わせると、自分は才能もあり、努力しているが、成長しないのは環境のせいになります。

「誰も自分を認めない」「分かってくれない」などと言いますが、分かってもらうための工夫も行動も起こしません。
教えを乞うことに抵抗を示し、教えを乞う機会を作ることもせず、機会をつくっても分かっているような態度をとり、チャンスを潰します。
自分の仕組みが、自分のことはそっちのけにして、責任は他者に押しつけるものだと気がつきません。



問題は個人に留まりません。
同じような考え方をする仲間を作ろうと働きかけます。
他人のせいにすると自分は楽です。
楽になりたいと思う人は多いので仲間は増えます。
周囲の犠牲者であるというのが彼らの口ぐせです。
自律心がないまま、主体性をもたず依存している自覚がないのです。
自意識が高いけれど、自己認識ができないメカニズムの本当は、自己否定感の強さにあります。
気づきたくないと必死に目をそらしているのかも知れません。



感情は大きく分けて「愛情」と「怖れ」です。
愛情は責任を前にしたポジティブな覚悟です。
怖れは責任を前にしたネガティブな逃避です。
人間は死ぬことを怖れますが、生きたい本能があるからです。
この本能がひとにとって救いです。
責任の意味を間違えているから、逃げたくなります。
責任の意味が分かっていたら、逃げなくていいんだと少しは思えるはずです。
責任とは、自分がやれることをやり抜いてやり抜いてやりきることです。
感情的行動とは、やれることをしないで自分を叩き潰す行為です。
叩き潰す前に、自分の本能を信じてみてはどうでしょう。


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