療養生活 どこが違うのかアサーティブ

かって彼女は職場を変わたばかりで、本来の彼女の領分の仕事だけに留まらず、誰でもできることまで、次々に飛んでくる指示に醐弄されなから、引き受けていました。明らかに処理能力を超える仕事量を引き受けていたのです。

その時、キャリアがない自分には、それが普通のことだと思っていたようです。乗り越えるべきことで、「できませんJ「助けてください」と言ったら最後、無能の烙印を押されてしまうと考えていました。そんなことしたら会社のなかで居場所を失う考えていたのです。

しかしその努力も虚しく、やがて体調を崩して自宅休養。顧客や職場内仲間に迷惑を掛けることに至って、ギリギリでつないでいた信頼を失ったのです。

「ベッドの中で、涙が止まりませんでした。」と言います。サボっているわけでもなく、睡眠時間も惜しんで懸命にやっているのに、どうしてこんなことになってしまったのか。悔しさと腹立たしさが湧き上がってくるものの、それさえどこに向けいていいのか、分からない状態が続いたのです。なぜ「NO」と素直に言えなかったのか。彼女は後悔しましたが、時すでに遅し。理由も対処の方法も分らないままで、無力感と自己否定感だけが強く残ったのです。

彼女の痛みを聴きながら、私は自分の過去を思い起こしていました。
私もサラリーマン時代に、2年間の処理能力を超える日々の果てに半年間の入院生活を過ごし、つごう1年間の療養生活を体験、さらにその後遺症に20年以上の歳月を費やしているからです。
しかし、私には後悔はなく、自己効力感があります。

この違いはなんでしょう。アサーティブであったかどうかの違いなのです。
可哀相に彼女はアサーティブでありませんでした。私の場合には手段に問題はあったものの、私はやりたいことをやったまでのことです。

もし、あなたが誰かを好きになって、その人を幸福にしたいと思って、自分の気持ちを告白するのと、恥ずかしさや不安から自分の気持ちを告白しないとしたら、どちらを選びますか?
その選択を分けるのは、プライドだと思うのです。
その人と関わって「幸福にしたい」のか。「幸福にしてもらいたいのか」の違い、つまり主体性は誰にあるのかという問題です。

 同じアサーティブ(積極的自己主張)にも、アサーティブとノン・アサーティブがあります。さらにノン・アサーティブにも「自分の権利を気遣わないノン・アサーティブ」と「他者の権利を気遣わないノン・アサーティブ」があります。

彼女の場合は、他者の権利を尊重して「自分の権利を気遣わないノン・アサーティブ」だったのです。そして私はアサーティブでしたが、「自分の権利」と「他者の権利」を守るためのアサーティブだったのです。「自分の権利」と「他者の権利」を守るために、ノンアサーティブになれなかったのです。(続く)