感情と境界 

じぶんぢから再生プロジェクト ゲンキポリタン


ブログ 愛ピDIRECT「ライフスキルで自分を動かす」は、ひとが健全に生きて行くために世界保健機構が定めた「ライフスキル」を仕事を通して身につける方法についてレポートしています。
ライフスキルは、生きる力であり、技術です。
人は基本的な生きる構えの影響を受けていて、ひとによって不足、アンバランスがあるものです。ブログ 愛ピDIRECT「ライフスキルで自分を動かす」は、「ライフスキル」の不足を補いバランスを調整するために仕事、学業、人生の大事な場面などの機会を通して身につけることをめざしています。

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【30】感情と境界 
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男女が恋に堕ちて、溶け合いたいと思う熱情はうらやましい限り?
いいえ、とんでもない。
愛するほどに境界をしっかりしておく、それが愛するということ。
互いに尊重する心を大切に扱うからこそ愛は続きます。


どんなに親しくてもわたし宛に来た手紙の封は勝手に開けないでほしい。
携帯電話の送受信歴は見ないでほしい。
カバンを開けたり、日記を読んだり、身体に触ったり、選択したことに文句言ったりしてほしくないでしょう。
これは健全な要求です。健全な関係です。
親密さは健全ななかに育つもので、あなたとわたしの<境界>が守られることで可能になります。



境界は、ひとの間はもちろん、身体、感情、責任、モノ、ことにもあります。
ルーズになるほど、自分が誰かに支配されても、あるいは支配しても、気がつかなくなります。
コンビ二で買ったラーメンを関係のない店先に座り込んで食べて、そのゴミをそのまま放置していく、あるいは自転車を無断で店先に駐輪して、関係のない店で飲み食いして平気というのは、境界に麻痺しているひとが増えている証明に他ならない。
その無自覚に、困っているひとがいることからも分かるように人間関係の乱れそのものなのです。
このような傍若無人な振る舞いが増える一方で、乱れは大切なひととの間でも起こっていて、愛情を交わす関係に著しい困難さが見受けられるようです。
親密さの経験不足による過剰な期待と失望によって、親密な関係が作れないひとが増えています。



親密さは、一心同体になることではありません。
親密さは、対等な関係にしかうまれません。
対等な関係は境界をはっきりと意識することから始まります。
親子であっても、無力な幼児期ならともかく、自意識がはっきりした段階では対等でないと通用しません。
対等とは、ひととして尊重することで、叱らないとか注意をしないことではありません。
ひととして尊重しているから、間違っていたら忠告するし、注意もします。
間違いを正すことはどちらにとっても恥じることではなく、よりよい方向にベクトルを合わせたものにとって励まし以外のなにものでもありません。


「感情と境界」境界点検シートクリックで大きな表


以上は、自分と他者の境界があやふやな混乱した態度で、境界を侵していると同時に侵されている場合もあります。
自分が被害を被っていることもあれば、被害を与えている場合もあります。





■ 境界がなぜ大切なのか。

その意味は、恋愛がなぜ、ひとを高揚させるパワーを持っているのかという課題に発見できます。
いかに恋しても、誰よりも恋い焦がれても、相手には自分の価値観があり、意志があり、判断があります。
どれをとっても、他者が思い通りにコントロールできるものではありません。
さらに、恋愛は昔から権力や財産をもっても思い通りにならないことによって、特別な価値を持ちました。


そこには人間の尊厳があります。それが境界という見えないラインです。
境界があるために、恋した異性は思い通りにならないことに悩み苦しみます。
しかし、だからこそ、別の主体性をもった相手が独自の判断で、主体的に自分に好意をよせてくれることに恋愛が至福になり得る特別な意味を持つのです。
もし相手の尊厳を踏みにじって、相手の関心を得ても、無意味で、そこには何の価値もなく嫌悪感が残るしかない構造になのです。
このことから、悩み苦しむのは、相手の尊厳を守るだけでなく、実は自分の尊厳を守っていることに他ならないことが分かります。
(自律心とはなんと素晴らしいものでしょうか!)


境界は人間の尊厳なのです。境界があるから価値があるのです。
境界はどのような角度からも、心地よさの絶対条件ではあるけれど痛みでもある。
そして、自律心とは、心地よさと痛みの最善を司るスキルなのです。

境界によって生じるストレスは自分をよりよくするために格闘する、よいストレスです。
親密さの意味を間違えば、境界の混乱と価値を崩壊し不毛の関係を作るしかありません。
よいストレスにも気づかぬまま、負のストレスと扱ってしまうことも珍しくありません。

境界の意識を整理することから始め、次に境界を変えるようにします。



■ 境界の意識

相手の感情と自分の感情は別
相手の感情に自分は責任をとらない
相手の感情をコントロールしない
自分の感情を表現するか、しないかは自分が決める
自分の行動は自分が決める
自分の行動を相手がどう評価するか、わたしの価値に関係ない



■境界を変える

 境界は固定したものではなく、相手や状況で変えるフレキシブルなものです。
相手や状況で変えるのは自分勝手ではないかと思うかも知れませんが、理由があります。
主体性は自分にある点です。これは相手も同じです。
つまり自分には自分の事情があるように相手には相手の事情がある。
それを互いに認め合う、それが境界だからです。


だから相手や状況で変えるフレキシブルなものでないと境界になりません。
そうでないと壁になります。
壁は一度作れば壊さない限り動かないもので、誰をも拒むものです。
コミュニケーションの断絶(ディスコミュニケーション)を意味します。


過去の体験で、自分を守るために境界を強固な防壁にしてしまったひともいますが、無力なこども時代と違い、壁はいまでは不必要です。
最初は戸惑うでしょうが、また、あせる必要はありませんが、勇気を出して壁を取り払い、柔軟な境界へと変える作業を試みるようにしてください。
また、壁を取っ払ったものの、境界になれていないことから、境界までなくしてしまうひとがいます。


他者との関係が混乱して距離がとれずに傷つくこともあります。
失敗は仕方がないことなので、再び壁を作ったり、自分を責めたりせずに、希望を失わず、あきらめず境界を作るようにします。
境界を用意しても、境界を無視するひとがいます。
その場合は、境界を越えないように主張します。
「わたしは、そうしてほしくない」と言葉にすることが大事です。
しかし猾い人は、自分の言い分を押し付けて、あなたに責任があるかのような言動、態度を示す場合があります。
境界を変えたいあなたは、境界を作り直すチャンスと考えて、境界の意識をしっかり持って、対処するようにします。
相手の問題は相手の責任において解決することであって、あなたが責任を感じることも、負う必要もありません。
他者に好かれたいと思うと、境界の設定は難しくなります。
相手の感情を自分の境界に入れてしまうからです。それを乗り越えるには、他者に好かれたいと思わないことです。
この世界には、正常な境界をキープしているからこそ、好きになってくれるひとがいます。
境界が曖昧なひとでも、そちら側のひととなら健全な関係が作れるようになるのです。
自分が破壊的な生き方を望まないのなら、どちらを選択したほうがいいのか、そして選択は自分ができることを思い出すようにしましょう。



自分の人生は自分の選択と判断、そして行動によって創造するものです。
それを不安に感じると他者の助けを求めたくなります。
助けを求めることは全く問題がありません。
しかし依存すると境界侵入です。
あなたが境界侵入すると、健全なひとはあなたと距離をとろうとします。
自分の主体性を妨害されるからです。
自分の人生を自己表現の場と思うひとにとって苦痛でしかないからです。
距離をとろうとしないひとは、あなたと同じく境界侵入したいひとなので、共依存になります。
両者ともに主体性がないので、共倒れになります。
あなたの助けになることもありません。
助け合うのと依存し合うのは全く異質なものです。
この共依存を熱烈な恋愛、親分子分の関係として映ります。



こどもは依存せずには暮らせません。無力なこどもはギブ&テイクができないので、境界の向こうにいる自分とはまったく別な生命体である親の無償の愛によって生き伸びることができます。
これは人生の歳月からすると短い体験で、心地よい感覚から離れて、経験によって境界を越えずに生きるトレーニングを慎重に積んでいきます。
母親の乳房から離れ無償の愛から遠のく、親離れ作業のプロセスで、サンタクロースは無償の愛を贈ってくれる唯一の存在として、つまり無償の愛があり得ないことであること認識して深く胸に刻むために人間が創り出した知恵のような気がします。


 共依存は、なんらかの事情で、そのトレーニングを完了しないまま、成人したひとの関係で、たとえば恋愛の至福とは縁遠いすがたにもかかわらず、傍目にうらやましく思えたりするのは、見るひとの郷愁を誘うからかも知れません。

 境界の向こうにいる第三者は、演劇でも見るような距離感で、うらやましく思う場合もありますが、主体性がない関係は決して好ましいものではありません。
主体性がないので励ますことも出来ません。
つまり恋愛しても幸福になることもありませんが、交際期間が短いと判らないままに結婚することになり、やがて冷めきった家庭になるだけでなく、目標もないままに惰性で暮らすようになります。
自律してもらっては困る親分子分の関係でも、構造は同じで成長が困難です。
境界侵入が、搾取と同じ構造を持っているからです。


他所で買ったラーメンを関係のない店の軒下で食べて、そのゴミを放置していく。
そのゴミを捨てるのは誰か?侵入された側なのです。
これが依存の結果です。
同じことでも、助けを求める場合は、まず食べていいか承諾を得ます。
(常識的には断るのが普通ですが。)
相手の親切を受けて食べ終われば、お礼を言い、ゴミを持ち帰るのは当たり前、周囲の掃除をしてから帰る位のことをするのが礼儀です。(ギブ&テイクです)
これが助けを求めた結末です。
ひとの気持ちが通い合う要素がうまれます。


親密な関係は、境界を侵入しないことから始まります。
親密になったことで、境界を越える場合もあります。
それは相手の承諾を得て、許す方は境界を変えます。

一方、境界を侵入した関係の結末は、どちらかが被害者になるか、両者共倒れで終わります。

会社やチームなど共同体では、ひとが増えれば増えるほど境界は複雑になります。
管理者そのひと自身が、あるいは管理者が、あやふやな境界意識を放置しておくと、境界侵入があちらこちらで起こり、依存の構造がウイルスのように作られてしまいます。
結果として意識も行動もバラバラになり混乱が隅々で起こります。
健全な共同体づくりでは、価値観の統一が必要ですが、ひとは幸福を求めて暮らしているので、その方向性になるのが幸福とはなにかという問題です。

個人個人の幸福を課題にすれば、主体性のぶつかりあいになります。
意見の違いは境界の存在を明確にしていて、健全さの証明ですので歓迎します。
くい違いを通り抜けない限り、共同体としての統一はできず本来の目的を果たせませんが、境界を認識しながら、共通点を見いだしていく作業そのものが、親密な関係を育むことになります。
仕事上、管理者の方は「【後述】大人の心から <目的志向、聴き上手、大局を観る>」を参照してください。そうでない方は主語を使って会話するように留意します。「【後述】思いを伝える方法」を参照してください。

意見の違いを嫌って、共通点を見いだす作業を曖昧にすれば共同体の力は弱まることはあっても、強くなることはありません。
そこにひとがいる限り、通らなければならないプロセスです。


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