自尊感情と責任の関係

じぶんぢから再生プロジェクト ゲンキポリタン
株式会社マートワン

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【28】自尊感情と責任の関係
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 人間は、肉親との死別など苦痛を経験しなくてはならない宿命にあります。
耐え難い苦痛があっても狂気に至らないのは、忘れるというメカニズムを使って、バランスを保っているからです。

忘れることで本能的に自身の生命を守っています。

その心理のメカニズムの身近な事例は、アルコール、ギャンブルをはじめ、いろんな依存症に見ることができます。
依存することで「責任」の存在を忘れる、あるいは遠のくようにして、責任と向かい合わないように自分で選択しています。
人のせいにしたりするのも、その調整のひとつです。



しかし、いくらうまく避けても、逃げても、逃げていることを自分が知っています。
逃げたくない良心と逃げている状態とのズレが自分のなかでしっくりしないので内面で葛藤が起こります。

葛藤の末に、本心を抑圧すると、自分の心の分離が起き、無力感が自分のなかに広がります。
この自分が感じている無力感は自分だけのものですので、他者は関係ありませんし、他者は知らないことです。
ところが境界を越えてしまい、一緒になってしまうと、自分の無力感を他者も感じているように錯覚します。

これが周囲の目を気にする状態です。
周囲の目を気にしだすといつも最悪の事態を想像するようになります。
責任を引き受けるより、最悪の事態をどのようにして避けるかが気になります。


周囲の目に最悪の状態で自分がさらされている感覚は恐怖です。
ひどい場合は生死にかかわる問題のように感じることもあるでしょう。
自分としては自分の良心のままに行動したくても恐怖心に苛まれ身動きがとれないので、自分が自分を抑圧した不快感から解放されることはありません。


 イライラしたり、体調不良になったりしますが、忘れるために使う「依存」は、好ましくないことであっても、悩める本人にとって、もっとも合理的な問題解決方法になります。

しかし依存は感情的な行動と結びついているのが普通で、感情的な行動によって自分や周囲のひとを傷つけてしまうことがあるので、慎重な注意が必要になります。


その依存から脱却し、自ら責任を引き受けるようになるプロセスは長い旅になるかも知れません。
しかし、それでも周囲の目を気にして生きるより、主体的に自分が責任を引き受けて、自分の持てる力を全部使って成功したり失敗したりする楽しさを獲得するためには、解決の旅に出たほうがいいのです。


 日本の国は依存症が蔓延しているようだと言われます。
それは言い過ぎであったにしても、個人差はありますが、全体的に主体性が乏しく依存的な傾向は随所に見られます。


 主語を使うのが普通の欧米では、自分が主役で主体的。
主語を使うのが苦手の日本人は、依存的で同じ意見でないと不愉快。
欧米では、無能な上司を持てば、欧米人なら「あいつを越えるチャンスだ」と考えますが、日本人の場合は「あいつのおかげで楽しくない」と愚痴をこぼす。

コミュニケーションも他者との違いにこそサプライズとよろこびを発見します。
違いの理由を知りたがりますが、日本では同じなのが当たり前のように考え、白か黒かを求め、違いを知りたがるより、違いを認めない傾向があります。
そのくせ、グレーだらけの曖昧が、両者が傷つかないコミュニケーションのコツと言ってはばからない、外国人にとっては不思議な存在です。


 それぞれの国に、それぞれのやり方があるのは仕方なく、それが長所である場合も少なくないけれど、自分の考え、意見を率直に述べることがふさわしい場面にまで依存的な傾向が表出するようでは、責任をとる力が育まれません。
それだけでなく。自尊感情(自己肯定感)を弱めてしまうので、ひとが遭遇する様々な場面でデメリットが生じます。


無力な幼子は親に依存しないと生きていけませんが、無力でない成人は、自立することこそ生きることです。
動物は、わが子を自立させるために子どもから離れていきます。
離れても生きていけるように事前に限られた期間で厳しい訓練を施し、ひとり立ちさせています。
それは動物が生きるための命がけの知恵です。
しかし人間には生活を楽しむ知性があります。



責任を果たすとは、自分の持てる力を出し切るという意味で、自分にとって楽しく価値のある行為です。
自分の持てる力を出し切ったかどうか、それは自分にしか分かりませんが、その基準が責任を果たした実感です。


もし、こんなものではない。手を抜いたような気がするなら、それは責任を果たしていないのです。
自分の持てる力のすべてを出し切ったのなら、自分で手応えがあるものです。
その見極めが信頼なのです。
だから信頼が高いほど、自尊感情は高くなりますし、自尊感情が低いほど信頼が低くなります。


つまり自尊感情が低いとは、まだまだやることがいっぱいあるのに手をつけていないことを自分が知っている証明なのです。
ところが、自己否定感の強いネガティブは傾向が強いひとのほとんどは、自分がまだまだ手をつけていないことがたくさんあると受けとめず、自分には能力がないと判断します。
能力がないから、なにをやってもムダだ、自分にはできないという思い方をします。
本当は鷹だけど、カエルと思い込んだ錯覚でしかないけれど、これがじぶん力を強化する際に、無意味で厄介な邪魔な判断になります。


日本には、昔から「イワシの頭も信心から」と言いますが、それが錯覚でも間違いでも、自分でそう思えば、そのひとには正しい判断になります。
それを修正していく作業は、自分のことに執着がなくなるまで、たたただゴールに向かって邁進することです。(アサーティブ・トレーニング)

答えは自分の内から返ってきますが、それができるひととできないひとがいます。
責任を果たすことは苦痛でなく楽しいことだと考えるように奨めても、あり得ないと思うばかりのネガティブなひとがいます。


ふぐ料理をごちそうと考える国があれば、あり得ないとする国があるのと同じです。
個人の自由といえばそれまでですが、自尊感情とふぐ料理が同じように扱えないのは、生産的でない特徴をもつ自尊感情の場合、自分だけの問題で済まず、周囲の人まで巻き込んで傷つけてしまう点です。


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