自分への期待と成果への期待は同じではない

じぶんぢから再生プロジェクト ゲンキポリタン
株式会社マートワン

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【27】自分への期待と成果への期待は同じではない
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自己表現を積極的にするのと、消極的にするのでは、相手への伝わり方が違います。
さらに自分の感情に注目するのと相手の感情に注目するのでは、さらに伝わり方は異なります。


自分の感情に注目するのは、相手にどう思われるか、どう見られるかが気になって、自分の気持ちに注目してしまうのです。
あがっているとか、あせっているとか、巧く話せないとか、効果的なプレゼンができないのではないかとかです。


 
 自分中心に考えるより、相手中心に考えるのが普通であって、それの集中力で、コミュニケーション力は変わります。
よく判らない自分を相手に理解してもらえるように伝えようとしたら、自分中心ではなく、相手中心に考えないと伝わらないものなのです。



相手中心に考えるといって、自分はどうでもいいということではありません。
あくまで自分がいて相手がいます。
自分を下に置いているわけでも 上に置くわけでもありません。



相手中心に考えているから、効果的なプレゼンができないのではないかと心配していると考えがちですが、それは違います。
 相手中心に考えていると、自分のことは気になりません。
自分は話の中に入り込んでいて、自分がいない状態になるからです。
つまり相手が判っているか、伝わっているかだけを、ひたすら考えてプレゼンする。
ひたすらやり続けると、自分が消えてしまいます。
 なにごとでもそうですが、自分は、いまこの瞬間やっていることに入り込んでしまうからです。



コミュニケーションをするとき、自分が我慢したらいいという判断から「伝えなくても別にいいか」と考えるひとがいます。
この場合、相手への配慮というより、ほとんど自分に集中しています。

自分が我慢したらいいというのはそうかも知れませんが、そうでない部分も多いものです。
共同体に属している「ひと」はどこかでつながっています。
“自分さえ”では済まないのが普通だと考えるのが正しい判断で、責任放棄、責任逃れになることが少なくありません。



自分の責任を果たすうえで欠かせない自己表現は、自尊感情の高さに影響を受けていて、自尊感情の高いひとは、自主的に責任を引き受けたいと行動するし、自分の能力を低く見積もっている人にとっては、重圧になり、引き受けようとしません。


その違いは一過性でなく、繰り返し続くことから、自尊感情つまり自己肯定感を高める循環を繰り返すひとと自己否定感が高まる循環を繰り返すひとに分かれます。
この違いは放置しておくと、一生続くということが普通に起こります。


重圧を強く感じるひとほど、苦痛も比例して大きくなるので、責任から目をそらし、逃げ出したくなります。
逃げるためのテクニックや口実はいくらでも用意できるし、使うことも可能です。
逃げてはいけない場面で逃げていると、どんどんじぶん力は退化します。


客観的に観れば逃げて何の意味があるのかと思いますが、意味はありません。
周囲のひとの目を気にすることは、ほとんど誰にも生じることですが、度を越えるほど気にすることに問題があります。
本人がひととひとの間にある「境界」を越えてしまい、自分の感情と他者の感情が一緒になってしまっているのです。
つまり他者の感情を自分の感情として取り込んでしまうのです。


 たとえば他者が自分に成果を期待したとします。
成果を期待されることは仕事をしていたら年中あり得ることです。
このときに、他者の期待感を取り込み過ぎて、成果を出せない場合に自分を否定しまいます。


成果そのものを期待されるのと、自分への期待は違う次元のことです。
 たとえば9回裏3対0で負けているとします。このとき2アウト満塁でバッターボックスに立ったとき、ホームランが出れば逆転勝ちです。
チームメイトも観客もホームランかヒットを期待します。
期待しているのは、ホームランかヒットであって、そのひとそのものが打つことではありません。別にそのひとでなくても誰でもいい。
たまたま自分に順番が回って来ただけのことです。
成果そのものを期待されるのと、自分への期待は違う次元のこととはそういうことです。



 でも、それは結局同じことではないかと思うかも知れませんね。
しかし違います。行動に違いが出るのです。
成果そのものに期待され、それを実現しようとしたら、成果を出すために必要な行動をします。
自分に期待され、それを実現しようとしたら、なんとかしないといけないと思いますが、できるだろうかどうだろうかが気になり、本来成果を出すために必要な行動をとりません。
注目するポイントが変わってしまうのです。


 成果を出すために必要な行動は、考えて仕方のあることです。
現実に反映されるからです。
現実に反映されるのでやればやるほど成果に貢献します。


 できるだろうかどうだろうという心配は、いくら考えても仕方のないことです。
現実に反映されないからです。
現実に反映されないことを考えれば考えるほど成果に貢献することをする機会を失うだけです。

 この両者の心配は、仮に両者が話し合っても互いに同じことを心配しているように思います。
同じ問題を同じような言葉を使ってコミュニケーションするので、同じことを考えているように思います。
これが仮想することが持っている危うさなのですが、いくら考えても仕方のないことを考えているひとも適切な努力をしているように錯覚してしまいます。


 しかも、ひとは誰でも価値ある存在であると思いたいものです。錯覚はその心情に働きかけてしまいます。
誤解が信念に変わったりすることも珍しくありません。
自分は努力している。あんなに心配してどうしたらいいのか考えてやっていると思い込んでいます。


それは間違っていませんが、考えて仕方のあることをしていない点に気づいていません。
そのため、できない原因を自分以外に求めないと腑に落ちなくなり、原因を他者、環境、状況のせいにします。自分では間違っていないと信じています。
 ですから、酒場に行けば愚痴が飛び交っているのも頷けますね。
みんな自分は努力していると錯覚するのはそういうことなのです。



 しかし他者、環境、状況のせいにしないで、自分そのものに原因があると思い込んでしまうひともいます。
なにかにつけ自分のせいではないかと気にするひとです。
他者の感情を押しつけられて、他者の不機嫌は自分のせいだと思い込んだ経験をしてきたひとに、その傾向が強く見受けられます。

 このタイプの方は、考えて仕方のないことを考える時間が多いので、思うような成果が出しにくいものです。
そのたびに自分のせいではないかと気にすると、ますます萎縮を強化してしまいます。
ますます自分に注目して、本来考えるべきことである「考えて仕方のあること」を考えず、「考えて仕方のないこと」に時間を使ってしまいます。
生産とは、「考えて仕方のあること」に時間を使うことです。
消費とは、「考えて仕方のないこと」に時間を使うことです。

生産的なひと、生産的な会社とは、時間の使い方の累積の結果なのです。
そして、自尊感情(自己肯定感)のありようも、時間の使い方の累積の結果によって決定づけられているのです。


 ひとは自分を価値あるものと思いたいものです。
どうすればそう思えるのでしょうか。
それは他者の評価によってもたらされるのでしょうか。そんな気もするけれど、ないか違うような気もする。
そうです。自分が判断することなのです。


 その判断基準は自分の内にしかありません。
自分に与えられた時間をなにに使っているかで決まるのです。
考えて仕方のあることをひたすらやっていると自分の内から声が聴こえてきます。
「よしよし、それでいいんだよ」
その声が、責任を果たしていることへの励ましです。



 自分への期待と成果への期待は同じではありません。
成果への期待は、考えて仕方のあることをひたすらにすることで応えられます。
自分への期待は、考えて仕方のあることをひたすらにすることで応えられます。
プロセスは同じです。
つまりゴールだけを気にしていると、プロセスを間違ってしまいます。



 ひとはただ存在するだけで価値があるものです。
ただ存在している状態とは、考えて仕方のあることをひたすらやっていることです。
考えて仕方のないことを考えている状態が、ぼけっとしている状態で、これはただ存在してる状態ではありません。


考えて仕方のないことを考えている状態とは、「広義の感情的な行動」といえます。



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