自尊心で自分を使う

じぶんぢから再生プロジェクト ゲンキポリタン
株式会社マートワン
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【10】自尊心で自分を使う

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いま、この瞬間に結果を出すためには、「よし、やるぞ」という意欲が欠かせません。
やる気があってやっているのと、仕方なしにやっているのでは、プロセスが違ってくるので、結果に違いが出て当然です。

内なるモチベーションに突き動かされた行動と、インセンティブに動かされた行動では持続力も違います。
知識や技術があっても、じぶん力の核にある心の力が弱いと不完全燃焼によって自分を使いきれません。
心の力を完全燃焼させる力、それが自分にはできるという気持ち、自分を肯定する力が意欲に影響します。


心構えとは、自分の力を整えるものです。
自分を最良の形で使うためにです。
それが本当の自尊心(自己肯定)ではないでしょうか。自分を大事にすることです。



しかし、どうしても、自分にはできないと考える人がいます。
あるいは、仕事をするあなたが部下を持っている場合、部下の中には実績にも人にも無関心な人がいたりします。
こんな人を部下に持てば、ストレスは絶え間なしに発生します。
あるいは、あなたが誰かの部下の場合でも同じです。


数値目標を達成する手段について言及されることはあっても、心構え、働き方は当人のモラールとして、言及されることは以外と少ないのではないでしょうか?
言うのも言われるのも楽しい話でない場合が多いからです。



結果は、どこか違う場所からやってくるものではなく、人の行動のあり方そのものですから、人についての関心の乏しさは、ひとが育たたない一方で依存心が強くなり、成長の強固な鏡の壁になります。

ですから、働き方についてポリシーを持ち、社内の人々を通じて社外にまで浸透させようと躍起になっている会社に在籍している方は幸福です。
それは普遍的な心の力を養ってくれる会社だからです。
このように私たちのありかたで、心の力、つまりライフスキルを育てる機会は、本当はどこにでもありますが、現実は心の力を弱める力のほうが強く働いている機会や場が多いので、注意が必要です。




心の力(ライフスキル)は、運動前の準備体操と同じく、整える心構えを忘れていると、弱めてしまいます。
心構えとは、生き方、働き方、遊び方など場面によって微妙に変わりますが、根幹にあるのは生き方です。
生き方と一口にいっても、次のように3つの選択肢があります。

● したい生き方
● しなければならない生き方
● できる生き方

そしてほとんどのひとは、どれかひとつを選ぶのではなく、混在していると思います。しかし、自分はどのような人間なのか、自分のアイデンティティを明確にしたい欲求が起こるときがあります。
基調となる生き方を意識したくなりますが、その時にもうひとつの基準が浮かびます。

● したいこと
● できること
● しなければならないこと

これらは、生き方とは、別の次元のことですが、人には暮らしがあるので、これを切り離して選ぶことは出来ません。



● したい生き方
● できる生き方
● しなければならない生き方
は、心の力の問題。

● したいこと
● できること
● しなければならないこと
は、技術の問題。



したい生き方をしながら、したいことをしているのが一番ストレスのない暮らし方。
しなければならない生き方で、しなければならないことをしているのがストレスの高い暮らし方です。
このような暮らし方で、どのようにしてやりがいを持てばいいのでしょうか。
しなければならない生き方をしたい生き方に変えることです。



そこで、したい生き方、つまり心のあり方をどうするかが課題になります。
なぜなら、もっとも自分でコントロールできる自由度の高い課題だからです。
というのは、人は誰でも自分の価値を認めてほしい生き物だからです。
その視点に立てば、したい生き方そのものにいろんな形があるわけではないからです。

「したい生き方」が現在、自分の思い違いから「しなければならない生き方」になっている場合には、自分の意志で思い違いを正して、「しなければならない生き方」を「したい生き方」に変えることができるということです。


ところが、これが大変なのですね。
人生の一大イベントになってしまったりします。
なるくらいならまだいいわけで、もうわけわからずに暮らしているひとが圧倒的に多い。


これが20:60:20の法則の最初の20%を外した80%もいるわけです。
イチローとか玉三郎とかは、もちろん最初の20%の最先端を走るひとです。
だから、自分なんかは、勝手にライバルをイチローとか玉三郎にして、「負けるもんか」とやせ我慢しています。
ところが努力が足らないので、油断していると、ぶくぶく太り出します。
それでも、めざしているので、あきらめない限りそっちの世界に行けると信じています。

「したい生き方」で、「しなければならないこと」をすることはあまりないと思います。
「したい生き方」がはっきりしていたら、「しなければならないこと」という受け身の発想は消えてしまうからです。
主体性のある生き方のもとでは、することも主体性をもちます。
主体性は責任を引き受ける態度となって具現化し、自尊感情(自己肯定感)を育みます。



いま若い人の働き方の問題になっているのは、「したい生き方」と「したいこと」の認識が混ざってしまっているからではないでしょうか。
デザイナーになることは生き方ではありません。

デザイナーになるには、それ相応の技術を身につけないとできません。
ところがそういう学習をせずに、デザイナーとして生きている人の生き方だけに憧れる。
しかし、その憧れは正しい認識をした結果かというとそうではないのですよね。
三者が生き方として見ているものが、実は生き方ではない。
生き方は節制と努力の中に無言の内にこめられたもので、場合によっては憧れの対象である本人でも意識していません。
だから本当につきあってみないと外からは分からない。

では暮らし方かといえばそうでもない。
「暮らし方=生き方×したいこと」ですからね。


では、なにかといったら幻想でしかない。
幻想が起こるのは、「したい生き方」と「したいこと」が認識できていないからです。
その結果、しなければならない生き方で、しなければならないことをしているか、
あるいは、したい生き方で、しなければならないことをしていることになっている。
いろいろ事情はあるのでしょうが、引きこもりとかはそういうことではないでしょうか。
仕事がないというけれど、条件も環境も悪くないのに、求人で苦しんでものすごい費用をかけても、それでも来ないという会社がたくさんあります。



したい生き方をしながら、しなければならないことをしているというのは、どうなんでしょうか?

主体性が意識できているひとならコントロールできますが、主体性が身につかないまま気ままに暮らしていても、不安が強く、ストレスが高いということです。

だって、これ以上ない生き方しているのに幸福ではないわけですから、どうしていいのか、わけが分からなくなってもおかしくありません。
「できる生き方」で「できること」を黙々としている人からしたらあり得ないことに映るのも無理はありませんが、妥当かどうか別にして、苦しんでいるひとにしたら、やっぱり苦しいわけです。


日本ではそうでもないのですが、諸外国ではこどもに自由がないのが一般的です。
こどもになぜ自由がないかというと、良心と良識に裏づけされた行動ができないからです。
主体性とは、自由を意味しますが、自由とは共同体に通用する良心と良識に他なりません。
それを価値観と呼んだりしますが、共同体に通用しない価値観は決して誰にとっても幸福には通じません。

なぜならひとは自分の存在価値を認めてもらいたい生き物だからです。
毎日、それを求めていきているからです。
だから自他肯定の構え、自分もOK、周りの人もOKの構えが尊重されます。
その構えは行動によって、美しく花開きます。


ゴールデン・ルールは、心の力を心の形に投入することによって、働き方、学び方、遊び方、生き方にしたものです。

(文中、敬称略)



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